自己弁護

私がどう生きてきたか。いつ死んでも良いように遺書代わりに。

私は要領がよかった

私は頭がよかった。

 

 

小学校で勉強に苦労したことはなかった。

先生が言ったことはすぐに覚えた。

先生が話す内容に矛盾があったら、すぐにわかった。

先生の矛盾は指摘するべきではないということはわからなかったが。

 

小学校高学年からは地元の進学塾に通った。

決してレベルの高い塾ではなかったとはいえ、入塾テストはほぼ完璧だった。

塾の予習復習はもちろん、宿題もほぼ一切やらなかった。

だが、範囲の定まっていない試験で満足いかない結果になったことはなかった。

 

中学受験では、万事がうまくいった。

1月入試最難関校、第一志望校、二日目最難関校、等。すべて合格した。

第一志望校以外は過去問をやった記憶もない。

 

私は調子に乗っていた。

 

 

中学に入って初めての定期試験。

成績はさんざんだった。

それまで勉強などろくにしたことがなかったのだ。当然だった。

中3のときには、あまりにもひどい成績であったために、呼び出された。

 

そんな私が再び自己肯定感を得られたのは、本のおかげだった。

本を読み、疑問に思ったところを、ある教師に聞きに行ったのだ。

「いや、きみはすごいですね。よくそんな質問を思いつく」

また、その後、担任から、彼が私をとても褒めていたことを聞いた。

 

私は再び調子に乗った。

 

様々な社会科学の本を読んだ。思いついた疑問は、すぐに聞きに行った。

疑問を持つだけで褒められる。

怠惰な私にはとても幸せな空間だった。

 

 

周りが受験を意識しはじめても、私は教師と駄弁ることしかしていなかった。

 

一番の得意科目は現国だった。なにも知らなくてもできたから。

現国ができないという人の主張は、いまだに理解できていない。

 

高校三年生の夏休みは、さすがに勉強した。

とはいえ、周りが8時間や10時間など平気でしているのに対し、私は平均で3時間程度だったと思う。

それでも私は比較的できる方であった。

 

受験では、万事がうまくいった。

早稲田政経のセンター利用も取ったし、慶応経済にも受かった。

第一志望にも受かった。

 

私は、自分はほかの人と違うと思った。

 

 

大学には、たくさんの人がいた。

 

私より頭のいい人しかいなかった。

 

私より勉強していないのに、私より成績の良い人がごまんといた。

私より頭がいいうえに、勤勉に学問に取り組む人が多くいた。

私より吸収速度が遅い人はいないように見えた。

 

 

私は絶望した。

 

 

中学受験塾が、私にとって一番良いときだった。

 

頑張って良い企業に、良い集団に属したとして。

私はその中で底辺になるだろう。

 

私にはそれが耐えられなかった。

私は未来について考えることを放棄した。

私はマジョリティーではなかった

 

小学校の4年生の時だった。

 

 

 

私の担任は少し変わった、おじいさん先生だった。

教科書に写真が載っている作家や作曲家のような、厳つい見た目の先生だった。

 

 

先生は音楽に造詣が深かった。

 

先生が思い入れのある歌謡を音楽の授業で流したとき、クラスの男子がそれを小馬鹿にするような発言をした。

 

私は、何か作品を馬鹿にしたり粗雑に扱う人が、唾を吐きかけたくなるくらいに嫌いだった。その時も、私は、彼らを心底軽蔑した。

 

そのとき、先生は彼らを怒鳴りつけた。

 

「この曲はなあ! 戦争のあとの日本をなあ! 暗い日本をなあ! 元気にさせた曲なんだ! お前は、それを!」

 

その迫力に押された彼らのうち、一人が鼻血を出してしまった。

先生はその手当をしながら、気まずそうに「俺は手出ししてないからな、勝手に出したんだ」と何度も言っていた。

 

私はとても嬉しかった。

先生が私のしたいことをしてくれた。先生は私の味方だ。そう思った。

 

 

 

先生はガンだった。すい臓ガンだった。

 

私がそのことを知ったのは、二学期の始めだった。

 

 

朝のHRの時間。

教室に入ってきたのは、私の知らないスキンヘッド先生だった。

 

スキンヘッドは、先生は病気のため休むこと、先生の代わりに自分が担任になることを伝えた。

 

スキンヘッドは体育の先生だった。クラス合同の体育は彼がやったし、音楽会の指導は隣のクラスの先生が代行した。

 

私は体育が嫌いになった。

 

クラスメイトはスキンヘッドを受け入れていた。、彼は若くて明るい、お兄さんという雰囲気だった。

 

 

あるとき、漢字練習の課題が出された。

 

私は(漢字を覚えるためのものなんだから、覚えている漢字など適当にやればよい)と考えていた。

私は少々物分かりがよかったが、生意気でもあったのだ。

 

それは許されなかった。

 

クラス全員の前で私は呼び出された。

「もっとちゃんと丁寧にやりなさい、ほかの子はやってるよ」

大きな声でそう言われてから、私は学校が嫌いになった。

 

 

 

その冬。先生が亡くなった。

お通夜に行った。

一緒だった母は、クラスメイトの母親たちと話していた。

そのそばで、私は、仲の良かった子と無言で見つめあっていた。

お通夜で流れていた曲は、先生が教科書に載せるために編曲した歌だった。

 

 

 

スキンヘッドは正式に担任になった。

 

彼はおぞましい提案をした。

「先生のお別れ会をやろう。そこで、先生がみんなに教えた曲を合奏しよう」

 

クラスメイトに異を唱える者はいなかった。

私は異を唱えられなかった。

 

 

私は楽譜が読めたので、ティンパニをやった。

 

練習中、私は不機嫌だった。

それを見たスキンヘッドは、私に同情し憐れんだ。

「先生、好きだったもんね。まだ辛いと思うけど、一緒に頑張ろうね」

彼は良い先生であった。

私は彼を嫌った。

 

 

彼は良い先生だった。しかし私は彼に不信感を抱いた。

彼がひどく薄っぺらくて、ロボットみたいな先生だと思った。

 

どうせ他の人にも同じことを言ってるんだ。

生徒を、生意気な生徒、おとなしい生徒くらいにしか見ていないんだろうな。

そう思った。

 

 

お別れ会は成功だった。クラスメイトはみんな満足気だった。

一部の子は、亡き先生を想って泣いていた。

 

私は、そのとき、クラスメイトが自分と違う生き物に見えた。

クラスメイトが何を考えているのかわからなかった。

 

なぜ。こんなもので泣けるのか。

なぜ。他人と騒ぐことで追悼できるのか。

なぜ。

 

私は、できなかった。

 

一人で静かにゆっくり、先生の死を考えたかった。

 

私の周りには、だれもそう考える人はいなかった。

 

 

私は学校を諦めた。

小学校5、6年生は、いかに休むかを追求した。

 

ベットタウンの公立小学校。

 

そこでは私はマイノリティーだった。

 

 

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