自己弁護

私がどう生きてきたか。いつ死んでも良いように遺書代わりに。

私はマジョリティーではなかった

 

小学校の4年生の時だった。

 

 

 

私の担任は少し変わった、おじいさん先生だった。

教科書に写真が載っている作家や作曲家のような、厳つい見た目の先生だった。

 

 

先生は音楽に造詣が深かった。

 

先生が思い入れのある歌謡を音楽の授業で流したとき、クラスの男子がそれを小馬鹿にするような発言をした。

 

私は、何か作品を馬鹿にしたり粗雑に扱う人が、唾を吐きかけたくなるくらいに嫌いだった。その時も、私は、彼らを心底軽蔑した。

 

そのとき、先生は彼らを怒鳴りつけた。

 

「この曲はなあ! 戦争のあとの日本をなあ! 暗い日本をなあ! 元気にさせた曲なんだ! お前は、それを!」

 

その迫力に押された彼らのうち、一人が鼻血を出してしまった。

先生はその手当をしながら、気まずそうに「俺は手出ししてないからな、勝手に出したんだ」と何度も言っていた。

 

私はとても嬉しかった。

先生が私のしたいことをしてくれた。先生は私の味方だ。そう思った。

 

 

 

先生はガンだった。すい臓ガンだった。

 

私がそのことを知ったのは、二学期の始めだった。

 

 

朝のHRの時間。

教室に入ってきたのは、私の知らないスキンヘッド先生だった。

 

スキンヘッドは、先生は病気のため休むこと、先生の代わりに自分が担任になることを伝えた。

 

スキンヘッドは体育の先生だった。クラス合同の体育は彼がやったし、音楽会の指導は隣のクラスの先生が代行した。

 

私は体育が嫌いになった。

 

クラスメイトはスキンヘッドを受け入れていた。、彼は若くて明るい、お兄さんという雰囲気だった。

 

 

あるとき、漢字練習の課題が出された。

 

私は(漢字を覚えるためのものなんだから、覚えている漢字など適当にやればよい)と考えていた。

私は少々物分かりがよかったが、生意気でもあったのだ。

 

それは許されなかった。

 

クラス全員の前で私は呼び出された。

「もっとちゃんと丁寧にやりなさい、ほかの子はやってるよ」

大きな声でそう言われてから、私は学校が嫌いになった。

 

 

 

その冬。先生が亡くなった。

お通夜に行った。

一緒だった母は、クラスメイトの母親たちと話していた。

そのそばで、私は、仲の良かった子と無言で見つめあっていた。

お通夜で流れていた曲は、先生が教科書に載せるために編曲した歌だった。

 

 

 

スキンヘッドは正式に担任になった。

 

彼はおぞましい提案をした。

「先生のお別れ会をやろう。そこで、先生がみんなに教えた曲を合奏しよう」

 

クラスメイトに異を唱える者はいなかった。

私は異を唱えられなかった。

 

 

私は楽譜が読めたので、ティンパニをやった。

 

練習中、私は不機嫌だった。

それを見たスキンヘッドは、私に同情し憐れんだ。

「先生、好きだったもんね。まだ辛いと思うけど、一緒に頑張ろうね」

彼は良い先生であった。

私は彼を嫌った。

 

 

彼は良い先生だった。しかし私は彼に不信感を抱いた。

彼がひどく薄っぺらくて、ロボットみたいな先生だと思った。

 

どうせ他の人にも同じことを言ってるんだ。

生徒を、生意気な生徒、おとなしい生徒くらいにしか見ていないんだろうな。

そう思った。

 

 

お別れ会は成功だった。クラスメイトはみんな満足気だった。

一部の子は、亡き先生を想って泣いていた。

 

私は、そのとき、クラスメイトが自分と違う生き物に見えた。

クラスメイトが何を考えているのかわからなかった。

 

なぜ。こんなもので泣けるのか。

なぜ。他人と騒ぐことで追悼できるのか。

なぜ。

 

私は、できなかった。

 

一人で静かにゆっくり、先生の死を考えたかった。

 

私の周りには、だれもそう考える人はいなかった。

 

 

私は学校を諦めた。

小学校5、6年生は、いかに休むかを追求した。

 

ベットタウンの公立小学校。

 

そこでは私はマイノリティーだった。

 

 

.